ダイバーシティー(多様性)という言葉が盛んに使われはじめたのは10年ほど前からでしょうか…。
私の勤めていた会社でも人事部が旗振り役になって、外国人の採用を増やしたり、女性を積極的に管理職に登用したりといった施策を進めていました。
今では「〇〇フリー」と称してダイバーシティーを進め、あらゆる「差異」をできるだけ撤廃するべきという共通認識が世界中に広がっています。
しかし、こうした多様化が進む一方で、その反作用のごとく何か大切なことが画一化してゆくような気がしています。
「移行期的混乱(ちくま文庫)」の中で著者の平川克美さんが「価値一元化への傾斜」と題して、すべてが金銭的価値に一元化される風潮に警鐘を鳴らしています。
60年代の日本では、まだ「お金に換算できない価値(例えば、労働など)」というものを人々が共有していたが、今ではそれがすっかり後退していると。
たしかにその通りだと思います。「年収が高い=価値のある立派な人」のような単純な図式が幅をきかせている。
例えば、私にとって学校の先生は敬意を表すべき存在でした。先生を評価するのに、その先生の給料のことなど考えたことはありません。
ところが、時代の流れでしょうか先生がサラリーマン化し、自ら労働条件や待遇のことを訴えざるを得ない状況になってしまった。
単純に待遇や時給換算といった指標で比較したら、先生という職業は割に合わないのは明らかです。でも、そのギャップは「社会から一目置かれる」という価値で補填されていたのだと思います。
つまり、これまであった別の価値観が社会から消滅してしまったわけで、これはまさに価値観が画一化の方向に進んできている証でしょう。
子供たちの評価もしかり。「勉強はできないけど足がとても速い」とか「運動神経は悪いが計算が得意だ」とか「絵を描かせたら学校で一番」とか。
かつては、皆がお互いに多様なモノサシを持ってお互いを評価していたかと。それが、今では「偏差値」という一つのモノサシに収れんされてしまったように思います。
多様性の追求はとても大切です。でも、その肝になるのは「価値観」の多様性です。「見た目」の多様性に目を奪われ、肝心なところがないがしろになっていないか常に気をつけておかなければなりません。