東京パラリンピック閉幕  「普通」とは何か

東京パラリンピック閉幕 「普通」とは何か

今日はパラリンピックの閉会式。東京2020大会はオリンピック、パラリンピックともに全日程が終了します。

コロナ禍で開催延期、無観客など何かと「史上初」がついてまわる異例の大会。まずは、大きな事故もなく最終日を迎えられたのは何よりです。

オリンピックと同様、パラリンピックでも印象に残るシーンがたくさんありました。私が特に印象にのこったのは水泳とブラインドサッカーです。

両手を失った選手がバタフライを泳ぐ姿や、クロールで見事な息継ぎをしている様子には感嘆と尊敬の念しかありません。自分は五体満足なのにバタフライはできないし、クロールの息継ぎも苦手です。

多くの選手が何らかの障がいを抱えながらも、それらを「乗り越えて」、いや、私の目にはそれらを「ものともせず」、しかも「強みにさえ変えている」ように映りました。

ブラインドサッカーを見たときには、本当にこの人たちは目が見えないのかと疑いたくなるくらい。失点するたびに(大変申し訳ないのですが)ゴールキーパーは「目が見えるのになぜ止められないの!」と思ってしまいました。

視力というたった一つのモノ差しで、フィールドの選手を基準にしてゴールキーパーを見てしまうので、自分の中でゴールキーパーへの期待値をぐーんと上げてしまっているのですね。人は何事も「相対的」にとらえるということでしょうか。

ビートたけしさんが、かつてオートバイ事故で入院していた当時を振り返って「病室の窓から外を見ていると、たまたま道路を歩いている人がいた。それを見て自分は、あの人のように普通に歩けるようになりたい。ただそれだけでいい。あとは何もいらない。あの時は、本当にそう思ったよ」とコメントしていたのを覚えています。

自由に歩けなくなるという状態からみれば、普通に歩けることは特別になる。そう考えると「普通」って何だろうという疑問が湧いてきました。

ブラインドサッカーというのはサッカーという種目がスタンダードとしてあり、そこにブラインドという条件が付加されている。

でも、もしサッカーとは「手」だけでなく「目」も使ってはいけない競技だったらと想像してみました。

そうなるとブラインドサッカーが「普通」であり、サッカーは「目」を使ってもいい「特別」な競技になるわけです。

そうなると、サッカーでは選手がみな目隠しをしてプレーをする競技ということになります。それこそ目の玉が飛び出るほどの報酬をもらっている名選手たちの影は薄くなり、ブラインドサッカーで活躍している選手たちはたちまちトップスターに躍り出るのかもしれません。

モノの見方に「絶対」はありません。多様な視点で物事をとらえることで自分の視野がひろがり、他者への寛大な気持ちも生まれるのではないかと思います。