ヒトを残すは上なり

ヒトを残すは上なり

財を残すは下なり 業を残すは中なり ヒトを残すは上なり

これは明治から昭和初期にかけて活躍した政治家、後藤新平の名言です。

明治14年(1881)愛知県病院長兼愛知医学校長となる。16年内務省衛生局に入る。ドイツ留学をへて25年衛生局長に昇進。31年児玉源太郎台湾総督により民政局長に抜擢、のち民政長官。36年貴族院議員に勅選。第2次、第3次桂内閣で逓相、鉄道院総裁、寺内内閣では内相、外相等を歴任し、シベリア出兵を推進。大正9年(1920)東京市長となる。第2次山本内閣内相兼帝都復興院総裁として、大震災後の東京復興計画を立案。ソ連との国交樹立にも関与した。

国立国会図書館HP 近代日本人の肖像より

かつて私は「カネの亡者」とも言うべき部門長に仕えたことがあります。彼は営業成績を上げることで自分の歩合制ボーナスの額を増やすのに躍起でした。

そんな自身のスタンスを隠す様子もなく堂々と顕示し、傘下の部下たちにノルマ必達を強要してくる。

私だけではありません。同じ境遇、つまり売上予算を背負っている他の事業所責任者の間でも不平不満が渦巻いていました。

そんなとき私はいつも、この後藤新平の名言を思い出していました。カネのことばかり考えていて、ビジネスそのものの発展や、それを担う人材の育成など全く頭にない、この人はまぎれもなく「下」なのだと。

彼と最初に会ったのはシドニーで現地事業所の責任者をしているときでした。この事業所は売上不振が続き存続が危ぶまれる「問題児」。

現地を訪れた彼は幹部全員を集めて開口一番「数字が出せない君たちは全員愚か者だ」と罵倒を繰り返しました。

あの忌まわしいミーティング以来、私はこの名言を心の支えに面従腹背を貫くこと5年。ようやく会社も彼が「下」に属する人間であることを認識したのか、ついに解任に至りました。

彼は私にとって「ざんねんな上司」の第2号です。