ノージンジャー

ノージンジャー

久しぶりに「ノージンジャー」という言葉を聞きました。某オフィスで偉い方がスタッフを前に発したこの一言。意味を解してリアクションできた人は一人しかいなかったそうです。

話が通じたお二人はいずれもX世代。居あわせた他のメンバーはもっと若い人たちだったそうで、全く意味がわからず呆然立ちつくしていたとのこと。

つまり、「おやじギャグ」であることすらも認識されなかったそうです。せめて「さむい」とか「凍る」といった一言でもあれば少しは救われたのでしょうけれど…。

さて、いまや目の敵にされている「おやじギャグ」。実は私も「言葉遊び」は好きなほうなので、いろいろと思いつくのですが、やはり人前で発言するのはつい控えてしまいます。

昔はダジャレなどの「くだらない言い回し」が日常会話の中でも頻繁に使われ、皆で笑っておしまい、特に冷ややかな視線を浴びることはなかったのですが…。

たしかに「くだらない」のです。「ドイツに行ったのはどこのどいつだ?」とか。冒頭の「ノージンジャー」は「生姜(Ginger)ない(No)」、つまり「しょうがない」とか。

しかし、例えば次の「なぞかけ」を見ますと、基本は「おやじギャグ」ですね。

パンとかけて新聞ととく。その心はどちらも「きじ(生地・記事)」が重要でしょう。

もっと高尚なところでは百人一首などに見る「掛詞」。

花の色は移りにけりないたづらに わが身世にふるながめせしまに(小野小町)

春の長雨を眺めているうちに桜はむなしく色あせてしまった。(日々物思いにふけって過ごしているうちに、私の容色も衰えてしまった)

この句では「ふる」の「降る」「経る」、「ながめ」の「長雨」「眺め」を掛けています。

こうしてみると「おやじギャグ」も捨てたものではありません。「掛詞が大衆化したもの」とでも言えばイメージが少し違ってきますね。