荻窪に光明院というお寺があります。荻窪という地名発祥のお寺です。私もたまにその界隈を散歩したり、中央線の線路を渡るために敷地内にある歩行者用通路を利用させてもらったりしています。
先日も所用で近くを通ったのですが、その際、お住まいの玄関先に座ってのんびりと読書をしているお婆さんの姿を見かけました。よく見ると、隣に小さな犬が気持ちよさそうに横たわり、お婆さんの腰に身を預けています。
なんともほのぼのとした光景。私は思わずそのお宅の前を行ったり来たりしながら何度も様子をうかがってしまったくらいです。
そこだけは街の喧騒と縁がなく、どこか別の時間がながれているように見えます。私はふと、ドイツで暮らしていた時のことを思い出しました。
あの頃も「この国では別の時間が流れている」と思ったものです。オフィスでも町なかでも、どこか落ち着いてのんびりしている。
繁華街にはそれなりに店も人出もありますが、日本のような、どこか常に慌ただしくてせわしい感じが全くありませんでした。
動物園でサルの群れを見たときの印象が日本なら、ドイツはトラやライオンといった猛獣を見たときのような印象とでも申しましょうか。
サルは何だか知らないけれど、いつも忙しく動き回っていますが、猛獣はあまり動きませんね。当時の私は、あの落ち着いた雰囲気に憧れたものです。もちろん、今もそうですが。
いったい、どうすればこのゆったりと流れる時間を感じることができるのだろうと、日々考えたものです。人種も文化も生活習慣も違うから、と言ってしまえばそれまでなのですが、やはりいくつかポイントがあるでしょう。
その一つは「便利」です。「便利」と「時間の流れる速さ」は比例するように思います。便利であればあるほど、時間は速く流れるのではと。
「便利」は、ムダな時間を削減し効率を上げる面もあるでしょう。しかし、「便利」であるがゆえに計画性が失われますので、かえって非効率を生んでしまうことも。
「便利」であれば「ギリギリまでなんとかなる」ことが増えます。明日必要なモノを買い忘れたことに今夜気づいても、大急ぎでネットで注文し、お急ぎ便で手配すれば何とか間に合ったりするわけです。そのため慌ただしい時間というものが生まれてしまう。
もし、そんな便利な方法がなければ諦めるしかありません。計画を変更するのみ。あわててネット検索に血眼になるようなバタバタした時間は生まれません。
もっとも、不便だと計画性が高まりますので、そもそも買い忘れといったことがなくなるでしょうけれど。
ドイツでの生活は正直申し上げて「不便」でした。でもそれと引き換えに「ゆったりと流れる時間」が享受できて、とても幸せでした。